Monday, November 07, 2005

ここが我が家 残したい

ここが我が家 残したい

毎朝不自由な手でほうきとちりとりを持って、自分の部屋を掃除する林却さん(85)。林却さんが楽生療養院に来て65年、彼女にとってここが「家」となった
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緑に囲まれた現在の楽生療養院。日本統治下に建てられた旧居住区にある病棟の中庭は入所者の憩いの場である。彼らの願いは、もはやふるさとになったここで最期まで暮らしたいということだ

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地下鉄整備工場の工事(下)が進む中、保存が求められている楽生療養院(上)。転居をせまられ、8階建ての新居住棟(左上)へ移転した元患者もいる

台湾のハンセン病療養所

 台湾のハンセン病療養所「楽生療養院」に収容されて62年になる男性(72)は「ここが我が家です。移りたくない」という。「私たちのついのすみかを残してほしい。次世代に私たちの歩んできた歴史を伝えていくためにも」

 日本統治下の1930年、「楽生院」として開設されたこの施設の入所者の平均年齢は75歳。強制隔離政策による差別・偏見に耐えながら、多くの入所者は、静かに暮らしてきた。

 ところが、台湾行政院(内閣に相当)は、事前に十分な説明のないまま、全入所者を8階建ての新居住棟に移転させる計画を打ち出した。地下鉄の整備工場の建設や医療の集約化が名目で、工事は急ピッチで進み、すでに7月末には一部の転居が始まった。

 入所者の反対もあり、台湾の立法委員(国会議員)らの働きかけで、転居は自由意思、強制移転はしないことになった。だが、今住んでいる所は補修せ ず、一時的に仮設住宅に住む人もいる。また、当局による楽生院の保存と地下鉄の両立をめざす代替案の策定はいまだに進んでいない。

 「以前は自分たちに人権があるとは考えてもいませんでした」。15歳で家族と別れ入所した陳再添さん(68)は自らが乗った収容列車にぶちまかれた白い消毒液、戦後の食糧難による飢餓、家に帰れない絶望で自ら命を絶った多くの入所者の姿が忘れられない。

 苦難の歴史が詰まった施設だが、「いまはここが故郷です。体を張ってでも自分たちの家を守ります」と言い切る。

 25日に東京地裁で、日本統治下に強制入所させられた台湾の元患者に対してハンセン病補償法に基づく補償が認められた。この判決を受け、台湾の弁護士らは近く、台湾当局に対して賠償請求訴訟をおこす予定だ。

 台湾でのハンセン病元患者たちの人権回復の闘いはなお続いていく。

カメラ・ペン 鷹見安浩(いずれも台湾・台北県新荘市で)

2005年10月26日 読売新聞)

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